2020-05-26 第201回国会 参議院 外交防衛委員会 第13号
首都タシケントのナボイ劇場の建設には日本人抑留者約五百名が従事したわけでありますが、そのナボイ劇場は、一九六六年の大地震で、タシケント、ほかの建物が軒並み崩壊をする中で、その堂々たる姿を保ち、日本人の仕事の確かさ、丁寧さ、こういったものが称賛をされたわけでありまして、劇場の外壁にはウズベキスタン側の手によって記念のプレートが設置をされております。
首都タシケントのナボイ劇場の建設には日本人抑留者約五百名が従事したわけでありますが、そのナボイ劇場は、一九六六年の大地震で、タシケント、ほかの建物が軒並み崩壊をする中で、その堂々たる姿を保ち、日本人の仕事の確かさ、丁寧さ、こういったものが称賛をされたわけでありまして、劇場の外壁にはウズベキスタン側の手によって記念のプレートが設置をされております。
しかし、実は一九六六年の四月、首都タシケントで震度八の大地震があった。そのときには三分の二の建物が倒壊するという大被害が起きたんですけれども、そのとき、日本人抑留者によって建てられたと言われているナボイ劇場は無傷だった。
私も経産大臣時代、二〇一四年にウズベキスタンのタシケント、そして先ほど申し上げたサマルカンドを訪問しております。その後、二〇一五年、安倍総理のウズベキスタン訪問や、二〇一九年十月のミルジヨーエフ大統領の初訪日を通じて、両国の戦略的パートナーシップは深化、拡大してきております。
大使をしておりますとき、首都タシケントの火力発電所を視察いたしました。大層年期の入った発電所で、六基ほどが動いておりましたが、ベテランの方が炉の扉を開けて石炭をスコップでくべていたのに驚きました。さらに、ところどころがたついているのを指摘しましたら、その方から、いや、なに、直せばまだ使えますよとの返事がありました。
また、中央アジアそのものでも、オアシスが大きな地域になっていますので、タシケントとかサマルカンドなどはきれいな町ですが、そこから少し西側に行くともう全く木がない、山は丸裸である。そういう景色を見ながら、何て日本ってうれしい国なんだろう、どこに行っても緑がある、そして川がある。
教育では、日本語教育機材の提供や日本語教師の派遣を行っているウズベキスタン国立世界言語大学、タシケント国立東洋学大学を視察しました。これらの大学では多くの学生が日本語を学んでおり、日本に対する関心の高さや、学生たちの日本語が相当上達していることが分かりました。大学側は、日本人教員を高く評価するとともに、各種日本語文献の寄附等を要望されました。
総理は、昨年十月、中央アジアを歴訪され、十月二十五日、ウズベキスタンの首都タシケントを訪問されました。日本からも多くの企業関係者が同行し、安倍総理及びカリモフ大統領が同席されたビジネスフォーラムが開催され、両国の経済関係が新しい段階に進んだと考えられています。
サマルカンド、タシケント等々、例の三蔵法師に出てくるあの時代から残っている国というものはもうこの国だけだと思いますので、そういった意味で、歴史的にも極めて古いもので、我々も多くのものを輸入してきたという経緯が昔はあったんだと、そういうように理解をしております。
二〇〇〇年だったと思いますが、五人の大統領が集まって、このシルダリヤ、アムダリヤを国際河川化するためにどうしたらいいかという議論をしましてタシケント宣言というのを出しているんですが、ただ、このときも結局、結論付けられたのは、それぞれの大統領が国に戻って国際河川化するための努力を部下たちに研究調査しなさいというようなことを行おうというのがやっとやっと合意された文書だったと思います。
そうすると、以前ですと、例えばウズベキスタンのタシケントからサマルカンドへ行くときには、以前は非常に短いんですけれどもカザフスタンを経由して行くのが一番近かったんです。ところが、今その道をやっぱり通れなくなってしまって、結局大回りをしていくんですね。そうすると一時間以上時間が掛かる。
去年五月にタシケントに行きまして、現地で閣僚あるいは大統領ともお話をしまして、非常に日本に対する期待が大きいということを私どもも受け止めましたので、それを踏まえて対応をさせていただければというふうに思っております。 以上でございます。
たしか二〇〇二年に、五か国、これはアフガニスタン入っておりませんですが、五か国の大統領が集まって二、三日掛けて議論した後、出てきたものがタシケント宣言という、ただ具体的な国際河川化というのには程遠いような、それぞれの大統領が持ち帰って国際河川化の検討をしようというようなものがやっと出てきたというところでございました。
ジェトロ及びJBICは、これはタシケント、それからモスクワにそれぞれ事務所を持っておりますけれども、そこでカザフスタンを含む中央アジア全域を管轄をしているということでございます。 いずれにしましても、我が国にとりまして大変重要なこの地域また国でございますから、こことの関係強化には我が国の関係政府機関と密接に連絡を取りながら引き続き取り組んでいきたいと、そういうふうに考えています。
鋭意交渉を行った結果、平成二十年八月十五日にタシケントにおいて、我が方平岡駐ウズベキスタン大使と先方ノロフ外務大臣との間でこの協定の署名が行われた次第であります。
ウズベキスタンに対する円借款事業であるタシケント火力発電所近代化計画は、御指摘のとおり、資材価格の高騰等の影響により、調達手続に時間を要しておりました。しかしながら、昨年末に本体工事に係る入札が成立しまして、現在本体工事の実施が始められたところでございます。 また、新規円借款案件につきましても、ウズベキスタン側の要請を含めまして、現在具体的な検討が進められております。
ウズベキスタンに対しましては、さまざまな支援もしてきたと思いますけれども、最近、大型援助案件でありますタシケントの火力発電所というのがあって、そこの近代化事業、これの支援及びその進捗状況が十分であるのか、ちょっと不安があります。また、どのような理由かわからないんですけれども、円借が近年行われていない。
鋭意交渉を行った結果、平成二十年八月十五日に、タシケントにおいて、我が方平岡駐ウズベキスタン大使と先方ノロフ外務大臣との間でこの協定の署名が行われた次第であります。
だけれども、僕もう時間がないから先に言っておきますけれども、例えば近くまで行っておくとか、タシケント、首都から現地までは距離があるわけです。近くまで、行けるところまで行っておいて、入れるようになったらさっと入るようにしないと、入れるようになってから、やおらよいしょと立ち上がって、ゆっくり首都のタシケントから現地まで行っていたら、その間に情勢は変わってしまうんです。
それで、今先生も御指摘の、タシケントから当地まで二百三十キロ離れている、あるいはいろいろな道路の状況等々を考えて、現状のところではその市内に日本の大使館から職員は派遣はいたしておりません。
それで、次に、テロの状況を先ほど冒頭少し触れましたけれども、現地のウズベキスタンの首都のタシケント、ブラハで爆破テロが起こっているわけでございますけれども、外務省が把握している範囲内で結構でございますので、テロの状況をお示しいただきたいと思います。御報告いただきたいと思います。
ウズベキスタン政府の発表でございますが、三月の二十八日から四月一日にかけまして、タシケントにおいて不審者による警察官の殺害事件、それから二件の自爆テロがございました。また、ブハラにおきまして爆発事件等が発生をいたしまして、ウズベキスタン治安当局による犯罪者グループに対する掃討作戦が行われるというふうに理解をしております。
これは、キルギスですけれども、ウズベキスタンの首都のタシケントのすぐそばなんですね。こういう拉致問題でこの締結に時間が掛かったということはございませんですか。ちょっと、確認をちょっとさせていただきたいんですけれども。
ジェトロ・モスクワが大体この地域を見ておりまして、ウズベキスタンのタシケントにもジェトロの事務所を、ついこの前でございますが作らせていただきました。カザフスタンのアルマティには金属鉱業事業団の事務所がございまして、全体のあの辺りの金属資源の関係の仕事をいたしております。
フランスは、例えばウズベキスタンのタシケントに中央アジア研究所というのを独立直後に作りました。これは、フランスから研究者が五、六人常駐しておりまして、それで、その駐在の期間というのは二年とか三年という生易しいものではありませんで、いったん行きますと七年とか八年、あるいは十年ぐらいもうそこに張り付くということで研究をやっております。
そして、フルシチョフが日本に二島を返すと言ったら返したチャンスはあったと思いますし、私も一九七六年から日ソ・シンポジウムで北方領土問題でタシケントとかアルメニアで講演したりして向こうの様子もかなりわかっているのですけれども、なぜあのときに二島をとっておかなかったか、そうしたらあと二島とかそういった問題になったのにと言うソビエトの学者もおります。過去にございました。
余談になりますが、十数年前に私はタシケントの映画祭に出席した折に、一日コルホーズを見学に行ったんです。昼休み時に大勢の人たちが木陰に腰をおろして憩っておりましたが、老人たちもその中にまじっておりました。彼らは、年金のほかに手当をもらっているということを聞きました。その手当は、老人たちのこれまでの長い農業生活における経験のために支払われているということでした。